マヂカルラーメン
先日オシャレなラーメン屋に行ったんですが、凝りに凝ってて、エスプーマかなんか使って泡泡したスープがのってやり、麺が太すぎたり、「もはやこれラーメンちゃうやん」とか思いました。
さて、いま国民のもれなく全員がnoteに執筆している「M-1グランプリ2020でのマヂカルラブリーのネタは漫才かどうか」を僕も書いてみます!はてなブログだけど!
結論:漫才やなあ
でもこの結論に辿り着くまでの道程にはちょっとあって。
誤解を恐れずに語弊のある表現で言うと、"漫才だとは感じないけど漫才だと考える" みたいなところ。
ここで、「漫才だと感じない」部分と「漫才だと考える」部分で分けて考えてみる。
(要するにthinkとfeelどっちも尊重すべきだよって整理するための文を書きます。)
①「漫才だと感じない」
僕は関西生まれ関西育ちで、漫才を見て育った。こだまひびき、はるかかなた、つばさきよし‥…なんかの漫才を見て育った訳で、そんな関西人が心のなかに共通の漫才像を描くのは当然だ。ふるさとの景色みたいなもんだ。
その景色とマヂカルラブリーを見比べたときに、マヂカルラブリーのは漫才だとは「感じない」。
この「感じない」は、認めませんという「NG」ではなくて、慣れ親しんだものと同じジャンルではないっていう「Not Same」でしかないんですよね。
「漫才ではない」言うてる人の大半はこんな回路だと思う。関西人でなくとも、クラシカルな漫才(獅子てんや瀬戸わんや、昭和のいるこいる、顔色よろしわろし…)を嗜む方々ならそう思うのも当然のことで、それはそれで尊重されるもの。
マヂラブを軽々しく否定する人らには良い感情が湧かないけど、根底にあるのはこんなもんやと思う。
「やっぱり醤油ベースに中華麺、これこそラーメンだよなあ」でしかない。
②「漫才だと考える」
個人的に、二人組以上による演芸は、漫才とコントのどちらかに必ず分類されると考えている。必ず。多分。大体。…きっと。
必ずとは言えなくとも、漫才で表現するのが自然なものと、コントで表現するのが自然なもの、って軸はありますよね。pHみたいな感じ。酸性中性アルカリ性。サンドイッチマンとかは中性かなあ。
マヂラブのネタは村上氏が野田氏の躍動する世界の外にいるわけで、その構造はコントやと不自然ですよね。少なくとも2人とも同じ世界線にいるのがコントかなって思うので。意見分かれるとこベースに書くのもアレですが。
以上から、考えてみたら漫才だよなあってことで、「漫才だと考える」に至ったわけです。
「不思議な食い物やけど、うどんでもそばでもないし、ラーメンやなあ」
人間とは裏腹なもので(主語が大きいのはトラブルのもと)、①②どっちの回路も脳みそに存在してる訳ですわ。
あとは感情の要素が大きいなあ。誰が言ってるか、どんな言い方かで感情が全然違ってくる。
仲良しの先輩とかが「あら漫才とは思えへんかったわ〜でも笑った〜」言うてたら「まぁ気持ち分かりますわ~」てなるし、嫌いな職場のおじさんが「あれは漫才とは認めん。全く笑えん。これだから近頃の話芸(ry」言うてたら「黙れバーカうんこうんこ」てなるし。完全に感情論。論でもないな、感情。
少なくとも言い方には気をつけなあかんなと自戒。今回自戒。今回やのに自戒とはこれいかに。ガハハハハ(こういうの好きな人いるでしょ(いない))
ウダウダ書きましたが、頭のなかでそんな風な回路が働くのは、お笑いを好きすぎるからであって、そんなに思い入れのないもんやと適当に「あんなんあかんわ」とか言ってるやろうし、自戒。今回自戒。
そういえば、ラーメンの話をしていた。
僕があのラーメンをラーメンちゃうやんと思ったのは、僕のラーメンの基準にエスプーマなんて存在しないし麺は細くあれって思ってたから。人によって基準は違うから、「いやいや麺の太さだけでラーメンから排除とは浅はかやろ。」とか、ありますわいな。それはそれ。
中華そばが好きなのは結構だけど、
誰かが好きなものを否定するのは御法度。それが社会。
みんなの定義がそれぞれ違うものに感情が混ざって会話が生まれてるので、誤解が生じない方がおかしいぐらい。
そんなカオスな状況やけど、みんな話題にはするんよな。
それって素敵やん。
師匠を偲べたところで、マヂカルラブリーさん、おめでとうございました。これからも楽しませてください。
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